【第2回】 「私の命を全て世界平和のために。」

 

聖路加国際病院 名誉院長 日野原 重明氏

103歳を超えてなお現役で活動を続ける聖路加国際病院名誉院長の日野原先生長寿の秘訣や、音楽へかける情熱について語ります。

4月21日 日野原氏自らのプロデュースによりザ・シンフォニー・ホールで行われた、「ベー・チェチョル コンサート」第一部での講演より(聞き手:ヴォイス・ファクトリイ代表 輪嶋東太郎)

 

――実話をもとに「ザ・テノール」という映画がつくられて、韓国の釜山映画祭で特別上映になったのですが、わざわざ釜山にいらっしゃいましたよね?

日野原 ええ、行きました。歌っている体に触りたいと。もう体に触ってね……手を握ってですね、その体から伝わってくる振動を体感し最高の音楽だと思いました。ベーさんに私の作った歌を歌っていただきたくなったのです。

――作詞・作曲、日野原重明ですよね。そこまで音楽と深く関わりがおありになったのに、医者の道をやめて、芸術家とか音楽家になろうと思われたことはなかったのですか?

日野原 いや、わたしは、肺結核になったときに、広島のピアニストが、「あなたね、日本に医者はたくさんいるから、アメリカに留学して音楽家になったらどうか?」と。家に帰ったら「とんでもない」といわれましてね。

――では、ひょっとしたら、そのときにすんなり「ああ、行っといで」といわれたら、われわれは100歳のピアニストを聴いたことになるかもしれなかったわけですよね。

日野原 そうですね。

――人生って不思議ですね。 

日野原 人生っていうのは不思議ですね。いろんなきっかけでいろんなことが起こる。

――ですけど先生が医学の道に進まれたおかげで、多くの方が医学を通して、エネルギーをもらっておられます。先生から声をかけられるだけで、もう元気になる、「幸せだ」っておっしゃる。 

日野原 それにしても、一色先生の手術。甲状腺のがんで、声帯の神経が死んでしまい、そして右の横隔膜の神経までも死んでしまった。一色先生がいらっしゃらなければ、べーさんの再起はありえなかった。この高齢で(当時77歳)、声帯の手術をするという人は世界に誰もない。外科の手術というのは、もう60歳超えるとみなさんできなくなるそうなのです。

――先生はとにかく「世界平和」、「世界平和」、「愛」、「許すこと」、「愛」だって、ずっとおっしゃっておられますね。 

日野原 わたしは、子供に対して平和を教えたいという風なことがあります。「いのちの授業」というのを10年以上前から、わたしは、「いじめ」の小学校に行って「いのちの授業」をして。結局「いじめ」というのはお互いに許しあわないから起こるのだから。人間だから、主の祈りのある、キリスト教のお祈りにあるように、われわれが罪を犯すことを、そういうごとく、わたしたちの罪を許してくださいという、そういうことですね。子供たちが、「ぼくは許すからきみも許してくれよ」ということで、「いじめ」をなくする運動をずっとはじめて、もう二百何十回。そうして日本だけでなしに、外国に行ってわたしは「いじめ」をなくするための講演をしているのです。

――いまも続けてらっしゃるのですよね。 

日野原 いまも続けてね、「いのちの授業」という45分の授業。その45分の授業をはじめるときには、その学校の校歌を歌うのです。音楽の先生がタクトを振るのに比べて、わたしのタクトは、猛烈に激しいのですよ。だから、みんながガァーと歌って。最後に、野口雨情の「シャボン玉」の歌。「風、風吹くな、シャボン玉飛ばそ」という歌を歌うと、子供はその歌の余韻を感じてね、「また先生、来てください」って。まあ、こういう風な小学校の「いのちの授業」を今でもやっています。


――次回へ続きます。

日野原 重明先生略歴
1937年京都帝国大学医学部卒業。同大学院(医学)修了。
1941年聖路加国際病院に内科医として赴任。
1951年米国エモリー大学留学。
1973年(財)ライフ・プランニング・センター設立。
1992年聖路加国際病院院長就任。
学校法人聖路加国際大学名誉理事長・名誉学長、聖路加国際病院名誉院長、一般財団法人聖路加財団名誉理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長など。