【第1回】 「私の命を全て世界平和のために。」

 

聖路加国際病院 名誉院長 日野原 重明氏

103歳を超えてなお現役で活動を続ける聖路加国際病院名誉院長の日野原先生長寿の秘訣や、音楽へかける情熱について語ります。

4月21日 日野原氏自らのプロデュースによりザ・シンフォニー・ホールで行われた、「ベー・チェチョル コンサート」第一部での講演より(聞き手:ヴォイス・ファクトリイ代表 輪嶋東太郎)

――先生、きょうはどうぞよろしくお願いいたします。100歳以上長寿に恵まれる方もいらっしゃいますが、先生ほどお元気で、ほとんど毎日、新幹線や飛行機に乗っていらっしゃる100歳以上の方というのは地球上にいるのだろうかと思いますが。

日野原 あと5ヶ月で104歳です。そうですね、韓国に行ったり台湾に行ったりね。またこの夏にはニューヨークに行きます。次の目標通過点を東京オリンピックに設定しています。

――このコンサートをプロデュースされた経緯(いきさつ)をお聞かせいただけたらと思います。

日野原 わたしと音楽との関わりは、10歳のとき急性腎臓炎にかかり、学校を休んでいる間にピアノを習い始めたことがきっかけ。半年ほどしたころ、母が、「重明ねえ、こういう風に寝てばっかりは大変だから、アメリカからピアニストがみえるから、ピアノ習ったらどうか」って。大正7年頃のことです。

それから、京都大学へ行っていた21歳の時に結核にかかって大学を1年休んだ時にね、寝たままでじっとしているわけですから、レコードを聴いてそれを楽譜に写すということを独学でやっていました。そして我流の作曲も始めたことから、ますます音楽に深入りしていって、ピアノの演奏以外に作曲ができるようになり、ピアノ曲も歌曲も作ったり、いろいろなホスピスで、患者のためにコーラスでボランティアをされる方たちのために私の曲を歌ってもらったりしています。わたしにとって、音楽はすごく大事なものなのです。

――べー・チェチョルさんとの出会いは。

日野原 テノールのシンガーがいらっしゃって、声がぜんぜん出なくなったのが、不思議に、京都大学名誉教授 一色信彦先生のすばらしい手術で回復して、ステージに立ちはじめたということを2年前に名古屋で聞いたのです。感動しましてコーラスに憑かれてしまった、これが最初の経験です。

――その時の感動というか、ご感想を。どんな感じがされたのでしょうか。

日野原 そのときには、甲状腺の手術をして、全然声が出なくなったというような状態で、横隔膜の神経も麻痺して、もう声が出なかった人が、すばらしい奇跡的な手術を受けて回復されたということを聞いたので、いったいどのように回復されたかということをわたしは知りたく思って名古屋に行ったのですよ。

――ということは、最初は医学的な興味のほうが大きかったのですか。

日野原 まあ、医学的な興味は多かったし、医学的にそういうことがありうるかどうか。わたしは確認したい気持ちにもなったのです。

――現役のお医者さまとしては、飽くなき追求で。

日野原 そうです。わたしは興味津々でした。その独唱を聴いたときに、これは、もうどうしようもないほど心が奮ったのです。もう、どうしてもアンコールをやってほしいと歌っていただいてね。こんなこと医学的にありうるかどうかと思ってわたしは疑ったのですがね。しかしそれが、すばらしい手術によって、実現されたのを見て、わたしは、べーさんの音楽会には、どこであっても行きたいという風な気持ちになりました。

――次回へ続きます。

日野原 重明先生略歴
1937年京都帝国大学医学部卒業。同大学院(医学)修了。
1941年聖路加国際病院に内科医として赴任。
1951年米国エモリー大学留学。
1973年(財)ライフ・プランニング・センター設立。
1992年聖路加国際病院院長就任。
学校法人聖路加国際大学名誉理事長・名誉学長、聖路加国際病院名誉院長、一般財団法人聖路加財団名誉理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長など。