千島土地株式会社

未来の子供達にもっとアートを

「巨大あひる」のお父さん

 

 

おおさか創造千島財団 理事長

千島土地株式会社 代表取締役  

 芝川 能一氏

 

 「千島土地株式会社」という名前を知っておられるでしょうか?多分大多数の方はわからないと思います。土地という言葉にヒントがあります。千島土地は大阪市内を中心に土地・建物を所有する不動産会社なのです。明治45年に当時としては珍しい株式会社として設立された歴史ある会社で、日本最大の不動産会社といわれている三菱地所の所有地を凌ぐ土地を所有するともいわれています。土地を買いあさった成金では無く、創業者の芝川家は江戸時代からの大阪商人の家系です。不動産業に転じて後は時代の変遷を「守成」の精神で生き抜き、また今も新しい事業・メセナに取り組んでいる秘密に迫ってみました。

 

■現在、会社としてどのようなことをされているのですか。

 

「不動産業」が主業ですが、もともと芝川家の先祖は、対馬に生まれ京都に出てきて『医』を業としていたとされています。その後「呉服商」「唐物商(貿易商)」などを経て、明治初期に、不動産業に転じました。後世により確実に資産を継承するため、リスクの高い「貿易業」を潔くたたみ、土地経営に転じたといわれています。また、今は1980年代半ばから航空機リース事業、2016年からは海外不動産の賃貸事業と幅を広げています。航空機リース事業部門は、土地賃貸部門の倍の収益を上げるまでに育ってきています。

◀名村造船(1991)

 

■おおさか創造千島財団について。

 

株式会社設立100周年(2012年)の記念として、財団を設立しました。社名・財団名の「千島」は主たる経営地のひとつである「千島新田」(現:大阪市大正区千島町)に由来します。大正から昭和初期にかけて、大阪は産業の発展著しく「東洋のマンチェスター」と呼ばれました。もともと新田ブームによって造成された大阪湾にそそぐ北加賀屋地区は、木津川両岸に造船所などの工場が建ち並び近代大阪の繁栄を支えましたが、産業構造の変化により活気が失われていきました。1988年(株)名村造船所の工場として利用されていた木津川沿いの敷地が、ドック(船渠)や工場、クレーンなどの建造物を残したまま、当社に返還されます。その後、この産業遺構の魅力を芸術・文化の力で蘇らせようとの動きが2004年に始まったのです。北加賀屋エリアの地域活性化の手法として、芸術・文化の発信拠点として再生することにしました。

 芸術・文化は、人々の創造性を育み、生きる力を生み出します。大阪及び周辺で活動するアーティストたちを支援することで、関西の芸術文化振興や魅力的な街づくりに貢献したいと思い、大阪府下の創造活動への公募助成事業も行っています。

■官・民・企業で、協力されている事業・イベントが多いですが、その取り組みについて。

 

2007年、名村造船所跡地が経済産業省より「近代化産業遺産群」に認定され、それを未来に生かそうと住之江区が2009年「地域活性化実行委員会」(※1)を発足。区役所・地域住民も参画して取り組み始めたのです。現在も年一回の地域アートイベント「すみのえアートビート」を協働して開催しています。

2009年には、水都大阪の復興を広く伝えるとともに、市民が主役となる、元気で美しい大阪づくりをめざし、「水都大阪

2009」がオール大阪体制(大阪府・大阪市・経済界等)のシンボルイベントとして開催されました。川や橋梁などを巡る水都アート回廊、舟と水辺を組み込んだまちあるきなど、これらのプログラムは、企画段階から実施段階に至るまで、市民や地域、行政と協働して実施しました。

当社はこの時、民間からから提言した連携事業という位置づけで、オランダの若手アーティスト・Fホフマンによる高さ9.5mの巨大作品「ラバー・ダック」を大川に展示し好評を得ました。その後もいろいろなイベントに提供しています。

 ※1 近代化遺産(名村造造船所大阪工場跡)を未来に活かす地域活性化実行委員会

■芝川ビルについては。

 

かねてより事務所を火事に強い建物にしたいと思っていた6代当主芝川又四郎が、1923年(大13)の関東大震災の経験を踏まえ、耐震性・耐火性に優れた鉄筋コンクリートのビルとして1927年(昭2)に建てました。南米マヤ・インカの装飾を纏った個性的で近代的なビルです。そのころ建ったビルの多くは、老朽化などの理由で取り壊されましたが、船場地区には「大大阪」時代の栄華の生き証人として複数の近代建築が今も其処ここに現存しています。2006年に芝川ビルは国の登録有形文化財(建造物)となり、現在は周辺の近大建築オーナーや地元町会、行政、大学などと連携しながら「船場博覧会」や「船場のおひなまつり」といった地域のイベント開催において重要な役割を担うほか、電柱の地中化など、まちなみづくりにも積極的に取り組んでいます。

2007年には4階の戦後に増改築された部分を撤去する工事を行いました。竣工時の写真を睨みながら、ひとつひとつ復元していったのです。ポルティコのアーチの装飾は、端に僅かに残った断片から全体の模様を推測し再生しました。現在、レンタルスペース「芝川ビルモダンテラス」として活用されています。

 

 

 

 

 

▲芝川ビルモダンテラス

 

 

 

 

 

 

▲芝蘭社家政学園


■芝川ビルは戦前「芝蘭社家政学園」をされていたのですね。

 

もともと、芝川家は「教育」に熱心でした。創立間もない大阪商業講習所(現:大阪市立大学)への資金援助や、広岡浅子の日本女子大への出資、須磨浦学園小学校の設立や関西学院が移転する際には用地売収にも大きな役割を果たします。

「芝蘭社家政学園」は1929(昭和4)年に「いとはんの学び舎」として「芝川ビル」に開校され、女子の教育に力を入れました。当時の帝塚山学院学長・庄野貞一氏を学監に迎え、自由な構想で教育がおこなわれ、今でいう女子短大の走りのようなものであったのでしょう。残念ながら、戦争の影響で閉校しました。

 

■そのほかにエピソードは?

 

「芝川ビル」地下倉庫から、2007年に1ダースのニッカウヰスキーが発見されました。ニッカの創業者・竹鶴政孝がスコットランドで、ウイスキー製造技術を習得して帰国後、英国人の妻リタと住んだのが帝塚山にあった芝川家の借家(洋館)で、家族ぐるみの付き合いがはじまり、芝川又四郎の子供達がリタさんに英語を習っていたこともあります。後年、又四郎は大日本果汁株式会社(現:ニッカ)の出資者となり、芝川ビルに創立事務所は設置されました。

また、阪急今津線敷設の際には、「甲東園」付近の土地1万坪を小林一三氏(阪急)に提供することで「甲東園」の駅を設けました。甲東園というのは芝川家が経営していた果樹園ニッカの名称です。甲東園で地域のシンボルとして親しまれていた、明治44(1911)年竣工の洋館「芝又右衛門邸」は、阪神・淡路大震災で被災し解体されたのですが、今は、愛知県犬山市・博物館明治村で見ることができます。

 

■2011年「メセナ大賞」をとっておられ、昨年「大阪サクヤヒメ賞」受賞とのこと。また、今後の展望についてお聞かせください。

 

社員と一丸となって日々いろいろおこなっていることが評価され感謝しています。弊社は、優秀な女性スタッフも多く働いており、様々な業務で力を発揮してくれています。

不動産という業種のためか、芝川家の代々の当主は長いスパンで時代を見据え、資産を後世に伝えることに尽力してきました。当社はこれからも、グローバルな流れに対応しつつ、未来を見つめながら様々な創造活動やまちづくり活動を通しての地域の活性化に取り組み、それを当社の資産価値の向上につなげていけるよう、たゆまぬ努力を続けていきたいと思っています。

【芝川能一氏 略歴】

昭和23年兵庫県生まれ。昭和42年甲南高校卒業。昭和47年慶応義塾大学経済学部卒業後、住友商事(㈱)入社。昭和55年千島土地(㈱)入社。平成17年代表取締役社長に就任、現在に至る。千島土地(㈱)は江戸時代より続く豪商『百足屋』芝川又右衛門の資産を引き継ぐ不動産会社で、現在は、土地・建物の賃貸に加え航空機リースも手掛けるほか、所有不動産周辺エリアのまちづくり活動に積極的に取り組んでいる。