大阪の誇るべき伝統芸能
文楽の魅力
文楽人形遣い 桐竹勘十郎師
16世紀末に人形芝居と浄瑠璃が出会い、琉球(現・沖縄県)から伝来した三線(さんしん)が基となった三味線が加わって人形浄瑠璃が上演されるようになりました。竹本義太夫が貞享元(1684)年、大阪・道頓堀に人形浄瑠璃の常設小屋である「竹本座」を創設し、人気を博します。座付き作者として迎えたのが近松門左衛門でした。
明治5年(1872)には松島(大阪市西区千代崎)に文楽座が開場し、人形浄瑠璃は[文楽]としてその呼称が定着しました。
その魅力について人形遣いの第一人者である三代目桐竹勘十郎師(64)にお話を伺いました。
――文楽は、太夫・三味線・人形の三位一体で醸し出す総合芸術と感じるのですが。
桐竹勘十郎 そうですね。どれが欠けても舞台は成立しません。私たちは三業(さんぎょう)と呼んでおります。どれも至って大切なものですが、これを考えた人は非常に素晴らしいなと。最初に語りとこの人形をあわせてみようということを考えられた方が本当に偉いなと思います。
――文楽の道に入られたきっかけは何でしょうか。
勘十郎 父(人間国宝。二代目桐竹勘十郎)がやっておりましたので。師事したのは父の弟弟子だった三代目吉田蓑助師匠(人間国宝)です。お父さんが太夫や三味線弾きだったので入る人もいますし、誰かの芸に惚れ込んで入る人、芸能の魅力を感じて入る人もいます。文楽のどこに魅力を感じるかは人によって違いますね。三業で力を出し合い、互いがぶつかるような感じでお芝居を作っていくというところが非常に面白い芸能やなぁと思います。歌舞伎でも浄瑠璃は出て来ますけども、あくまでも主役は役者さんです。歌舞伎で物語を進行していくために、義太夫節があるととらえることもできますが、文楽の場合は太夫・三味線・人形が一体にならないと芝居ができませんので、その辺が大きな違いかなぁと思います。
太夫で入ったら一生太夫ですし、三味線ならずーっと三味線なんです。私も14歳で蓑助師匠に入門しました。文楽劇場の研修生(*1)は、最初は全部やりますが、途中からは専門の指導を受けるようになります。
昔から責任が重いのは太夫・三味線と言われています。浄瑠璃の物語の世界を作り上げるのは太夫・三味線なんです。その中に人形が登場して色々お芝居をしていきますので、そこがちゃんと出来てないとね。太夫・三味線っていうのは本当に責任が重いのです。
※1 研修制度は文楽の技芸員(太夫・三味線・人形)を養成する目的で昭和47年に開始した。受 講料は無料で研修期間は2年間。
――どの修業も大変なような気がします。
勘十郎 文楽では主遣い(おもづか)、左(ひだり)遣い、足遣いの3人で人形を操ります(*2)。「三人遣い」ですね。江戸時代半ば頃までは1人で人形一体を操る「一人遣い」で現在より小さい人形だったようです。
修業は足遣いから始め、そのあと左遣いへと進みますが、そして主遣いとなります。ただ、何十年か経たないと主遣いが出来ないということじゃなく、足遣い、左遣いっていう修行の期間がそれぞれ10年、15年あり、その間に簡単な主遣い(子役・端役等)はさせてもらえます。主遣いは少しずつ覚えるということですね。
主役クラスの主遣いをやるには30年ぐらい修業を重ねないとできません。経験を重ねないとできません。私は人形遣いになって50年になりますけど、やっといろいろなことがわかってきて舞台を勤めております。でもいまだに初めての役もあり、まだまだ精進しなければなりません。
※2 主遣いは右手で人形の右手を操り、左手を人形の背中、帯の下から差し込んで人形の首を操る。左遣いは右手で人形の左手を操る。足遣いは両手で人形の両足を操る。
―― 人形遣いの方は人形だけを操る以外にどんなことをされるのですか?
勘十郎 役をもらった人が人形を拵(こしら)えます。私たち人形の胴体の部分とか手とか足とか、自前のかしらも持っているんですけども、その胴体の上に衣装を着せて吟味して調整したりするのは自分で全部やります。吟味しながら衣装に着せて、手足を着け、小道具をつけて舞台に出られる状態にするのを人形拵えといいます。かしら担当と床山が色を塗ったり髪の毛を結い上げたりして、出来上がったかしらをそれにつけて舞台に出ます。
―― 狐の演目がお好きということですが。
勘十郎 狐そのものが好きなのですよ。狐の役が出て来るお芝居っていうのがいくつかありますが、狐の遣い方は野生の動きを出さないといけません。動物園にいってみてもほとんど寝ていますのであまり参考にはならないんですが、そこで「犬になってはいかん」という言い伝えがあります。それを所作で表現するのが面白いんです。ケレンや早変わりも面白い。私も使いやすいように自前の狐を持っています。
―― 手負いの役柄にも思い入れがおありになるそうですが。
勘十郎 お芝居で手負いというのはそこから核心に入る展開が始まるんですね。いわば肝心要のところです。ということは舞台では非常に難しい重要な場面が15分20分は続きます。しかも、その間は手傷を負っているという状態を息づかいも含めて伝えなければなりません。そういう物語の作り上げが好きなんですね。
今回、お正月は『摂州合邦辻』の玉手御前という役をいただいたんですけれども、これも刺されてからずーっと大事なお芝居の部分があるんですが、かなり長いんです。苦しそうに見えるかどうかという所も人形ですのでね。下手するとそうは見えない時もありますので、嘘でも人間とはちょっと違う角度にしてみたり、そういうのを考えながらやる手負いの役っていうのは面白いなと思います。
――空襲では多くの人形のかしらが焼け、その修復が大変だったそうですが。
勘十郎 やはりお芝居は火災が1番怖いんです。昭和20年3月14日の大阪大空襲では、当時、四つ橋にあった文楽座も被災しました。運び出せなかったかしらが沢山あり、ほとんど燃えてしまいました。戦争が終わってからの復興では皆さん大変苦労をされました。そんな中、鳴門の人形師である四代目大江巳之助さん(故人)がかしらの大部分を制作されました(*3)。
*3 現在、国立文楽劇場で管理しているかしらは約80種、総数は約320番。(かしらは「番」と数える)
―― 人形製作をふくめた裏方さんについてご紹介ください。
勘十郎 かしら・衣裳・床山・小道具で構成されています。かしら担当の方はかしらを作るほか修復などの作業を担当します。人形を装う衣裳づくりは衣裳の担当で、生地を発注し仕立てます。床山は人形の髪の毛の結い上げですね。小道具の担当は先ほどの狐のように物語に必要な小動物を製作します。女性スタッフも多いです。
―― 演目については。
勘十郎 作品は江戸時代に書かれたものですが、非常に古い時代のものをお芝居にしたのが『時代物』、一般庶民のことや瓦版ニュースをお芝居にしたものが『世話物』ですね。江戸時代でも、足利時代とかね、鎌倉時代とか平安時代を舞台にしたものはやっぱり喜ばれる。また、昔の時代を舞台にして上手く色んなことを混ぜ合わせて古い物語に仕立ててというのもあります。当時、実名を出すことができなかった人物もいたので、例えば、豊臣秀吉とか、赤穂浪士の討ち入りも足利時代に時代を移して名前を変えというように作者としては色々苦心をしはったのでしょう。様々な物語があります。
明治からあとの演目を新作と一応言うんですけども、明治維新ももう150年も経って、もう新作とも言えず立派な古典物ですが、江戸時代のものを古典、それから後の物を新作という風な分け方をしていて、外国物(お蝶婦人・ハムレット等)を始め今でも新作は作られています。
演目数としては、上演可能な作品が120~130あると思います。ただ、滅多にやらない演目も上演がないと絶えてしまいます。継承していくべき文化ですからそれだけは避けなければなりません。人気のある演目ばかりやっていたら楽ですけども、他の財産が埋もれてしまいます。
あとは物語の発端から最後まで全部1日通してやるという通し狂言で、これも文楽の大きな財産です。中でも三大名作(*4)という作品が出来なくなったら、それはもう由々しきことです。文楽は通し狂言が出来るというのは強みですね。
※4「通し狂言」三大名作『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』。
―― 去年10月にも海外公演がありましたね。
勘十郎 パリにある日本文化会館設立20周年を記念した公演でした。演目は『義経(よしつね)千本(せんぼん)桜(ざくら)』道行(みちゆき)初音(はつね)旅(たび)、『伊達娘(だてむすめ)恋(こいの)緋(ひ)鹿子(がこの)』火の見(み)櫓(やぐら)の段、『本朝廿四(ほんちょうにじゅうにし)孝(こう)』奥庭(おくにわ)狐(きつね)火(び)の段でした。
これらを3日間やりましたが、切符はすべて売り切れて好評でした。来年は「ジャパンイヤー」で日本の伝統芸能に対する関心が高いですね。海外にはこれまで26ヵ国で公演していますが、どこに行っても喜んでいただいています。
―― 文楽の上演を通じて伝えたいと思われることは何でしょうか。
勘十郎 これはもう若い人、次の世代の人に舞台を見ていただきたい、それに尽きます。もちろん、私たちももっと努力しなければなりません。たとえば、子供たちに文楽の魅力を伝えるために夏休みには親子で鑑賞していただけるような公演を毎年継続していますが、まだまだ足りない。でもこういう企画を絶対になくしてはいけないと思います。舞台で演じる側、それをご覧になる方が揃って初めて芸能なんです。最近、よくユネスコ無形文化遺産ということが話題になりますが、本当の遺産になったらどうしようもありません。たとえ遺産であっても、それが生きている形で後世に伝えないといかん、そう思いますね。
人形というのは、ある意味人間の代わりなんですね。人間なら演じられないことでも人形なら表現できる、現実ではありえないことでも人形を遣うことでそれが可能となります。また人形は安心なんですよ、子どもに見せても。小屋の中っていうのは何をやっても平和なんですわ、実は。
―― 最後に、これからの文楽の課題を。
勘十郎 ぜひとも生というか、ライブで見ていただきたいと思いますね。どこを見るとか、何を聴くとか、そんなことではなく、まずは劇場に足をお運びください。見ていただくと「おっ、面白いな」という文楽の面白さ、魅力が実感できます。そうして一度といわず何度でも文楽をご覧になっていただければいいですね。そのために私たちもいっそう頑張りたいと思います。
桐竹勘十郎 略歴
昭和28年 大阪市に生まれる。父は二世桐竹勘十郎(人間国宝・故人)。昭和42年、文楽協会人形部研究生となり、三世吉田簑助(人間国宝)に入門。立役、女方、いずれも遣いこなす貴重な存在。平成15年、三世桐竹勘十郎を襲名。子供や新しいファン開拓に積極的に取り組んでいる。海外公演にも力を入れている。