安藤忠雄

建築家としての

考え方・生き方

 

世界中で活躍を津図ける関西が生んだ建築家「安藤忠雄」氏に、建築についての興味・こだわり、最近の動静、人生という観点、建築と人と暮らしに関わる幅広い問題についてお聞きしました。

 

建築家 安藤忠雄

 

「光の教会」

「桜の通り抜け」

 

 

●関西の活性化について

大阪は昔から「商人の街」であり、市民主導型のまちづくりを行ってきた歴史があります。古くは「水の都」と呼ばれた大阪には、八百八橋と言われるほど多くの橋がありましたが、それらの大部分は市民の手によってつくられたものです。また、住友家の寄贈による中之島図書館、岩本栄之助の寄贈により実現した中央公会堂など、民間の手でつくられた建築が今も大阪の景観を構成する重要な要素となっています。市民の高い公的精神によってつくられたまちといえるでしょう。

 

この市民参加の精神を受け継ぎ、自分たちのまちを自分たちの手で美しく元気にするために、200411月に発足したのが「桜の会・平成の通り抜け」です。11万円からの寄付金を募り、大川から中ノ島一帯を中心に、桜の木を植えようという活動で、シーズン中100万人近い観光客が訪れる大阪の全国的な名所、造幣局の桜の通り抜けをより広範に発展させることで、「美しい街、大阪」の実現を目指しました。官に頼るのでなく、市民の力で「大阪でしか出来ないまちづくり」を実現することで、かつての活気溢れる大阪を取り戻すとともに、全国に新しいまちづくりのかたちを示したいという思いが込められていました。

 

当初は厳しいと予想された募金活動も、予想以上の市民の賛同を得ることが出来、52000口の寄付金を集め、3000本の桜の植樹を達成しました。大阪人は、先人達の持っていた市民参加の精神を、しっかりと受け継いでいるのだなと実感しました。

 

「都市の大樹」

 

この他にも大阪では、大阪でも、緑の力を借りた様々なまちづくりの取り組みがなされています。近年新たに、二つのプロジェクトが完成しました。

 

一つ目は、大阪駅南側に建つマルビルの緑化です。地上30mの高さまで、壁面にステンレスネットを設置し、中間階のプランターからツタやカズラなどの登はん性の植物を伸ばすとともに、足元の広場も壁面緑化を行って、大阪のランドマークを「都市の大樹」として再生、「環境都市大阪」のメッセージを世界に発信するシンボルとする計画に、マルビルを管理する大和ハウス工業が賛同して下さり、実現に至りました。

 

希望の壁」

 

もう一つは、新梅田シティの北側広場、梅田スカイビルの足元にある「里山」に、巨大な緑化壁面を設置する、「希望の壁」です。提案に対し、今度はスカイビルのオーナ会社の一つである積水ハウスが快諾して実現しました。高さ9m、長さ80mの「壁」は、両面がプランターとステンレスネットで構成され、ツツジやヤマブキなどの中低木、ツル性や登はん性の植物や多年草が植えられました。壮大な緑の壁の風景は、訪れる人々に癒しの時間を与え、それぞれの心と心をつないでくれることと思います。

 

いずれも大阪を思う志を持った企業の協力でスタートしたもので、緑の都市インスタレーションともいうべき非建築的な計画ですが、行政に頼らず、民間が率先してこういったまちづくりの取り組みを仕掛けていくことで、日常の都市風景に刺激を与え、人々が集まる街角を新たにつくっていくことは大変意義深いことだと思います。緑化だけでなく、文化や芸術の分野でもこうした取り組みが増えていけば、まちはもっと元気になると思います。

 

 

●「桃・柿育英会」の趣旨について

 

2011311日、東北地方を襲った東日本大震災で、地震と津波は、人々が慣れ親しんだ風景を、根こそぎ奪い去りました。私が被災地を訪れたのは5月でしたが、想像を超えた惨状の中で、ただ茫然と立ち尽くすばかりでした。この状態から、復興することが可能なのか。私たちに一体何が出来るか。建築家にできる事はあるのか。それを考え続けました。

 

阪神・淡路大震災と違って、家屋だけでなく、住むべき土地自体を失った被災者たちに、建築家としてできる事はあまりに少なく、無力です。悩んだ挙句、たどり着いた結論は、どんな小さなことでも私たちに出来る事からやっていこうという、シンプルな答えでした。

 

復興への第一歩として、地震と津波によって肉親を失った遺児や孤児たちのために、「桃・柿育英会」という震災遺児育英資金を、数名の文化人、学者、財界人たちと立ち上げました。参加者には、11万円の募金を10年間続けて頂く。少なくとも10年は、被災地の子どもたちの成長を見届けたいという願いを込めました。

 

事務局は私の設計事務所に置き、頂いた寄付金をほぼ全額遺児・孤児に手渡すため、必要経費もスタッフも、ほとんどボランティアで対応しています。反響は大きく、発足を発表した当初は、連日電話が鳴りやみませんでした。多い時で日に300件もの申し込みがありました。申込の大半は女性で、しかも60歳を超えたご高齢の方が多い。電話で、「10年間、生きていられるか解らないが最後まで頑張りたい。」とつぶやく80歳のおばあさんもいました。やはり今の日本を支えているのは、女性のエネルギーだと痛感しました。

 

「桃・柿育英会」は、予想をはるかに上回る反響を呼び、震災後10年間で44億円を集める目処が立ちました。どれだけ多くの人々が、被災地の力になりたいと考えているかが良く解りました。日本人もまだまだ捨てたものではない。こういった一人一人の思いをうまく紡いでいくことが出来れば、復興に向けての大きな力となる。そう信じています。

 

今回の震災で、多くの人たちの命が奪われました。建築家の責任として、人々の安全と安心をしっかりと守るまちづくりをしていかなければならないと考えています。

 

「プンタ・デラ・ガーナ」

 

●自分の生き方について

 

14歳、中学の二年生のとき、非常に熱心な数学の先生と、一心不乱に私の自宅の改造に取り組む若い大工さんに出会いました。異なる職業についているこの二人の人物を知ったのをきっかけに、建築の世界に興味をもつようになりました。もちろん、その時点で「建築家」という職業をはっきり意識したわけではありませんが、数学を考えること、建物をつくること、このふたつが一緒にできる建築というものの奥底にある魅力に、漠然と惹かれはじめたのです。そして20代のはじめに、ル・コルビュジェの作品に出会いました。とりわけロンシャンの礼拝堂に多くに人が集まっている写真を見て深い感銘を受け、「建築とは人々が寄り添い集まり、感動を共有する場を創造する行為なのだ」と実感しました。この考えは、今に至るまで変わりません。

 

また、ロンシャンの礼拝堂を目にしてから、私にとって「光」は、建築を考える上で主要なテーマとなりました。光の教会では、少ない予算と、プロテスタントの礼拝堂という条件もあって、極限まで要素を削りとった結果、自分の光に対する考え方が最もストレートに表れた空間となりました。抽象的なコンクリートの壁の上で刻々と表情を変える光の移ろいと、対比的に深みを増す闇との関係性は、魅力的な空間づくりを目指す中で、今も追い続けている重要な課題です。

 

一方で、ベニスのプンタ・デラ・ドガーナや上野の国立国際子ども図書館のような、歴史的建築物の保存・再生にも取り組んできました。古いものを再利用しつつ、新しい生命を挿入する。新旧の要素が対峙することで生み出される刺激的な空間づくりを目指しています。これからも、人々の心にしっかりとのこるような、価値ある建築を目指して、つくり続けていきたいと考えています。

 

「住吉の長屋」

 

 

 

●住環境と人の関わりについて

 

私が生きてきた中で、転機となった仕事の一つに、実質的なデビュー作となった「住吉の長屋」があります。

 

この住宅は、三軒長屋の真ん中を切り取り、コンクリートの箱を挿入したシンプルな構成で、間口二間、奥行き八間の小さなものですが、さらに平面を三等分して中央に中庭を設けました。日本の伝統的な町家に見られる土間や中庭といった要素を私なりに解釈し、光や風といった自然の要素を取り込む装置として住宅の中心に配することで、狭い中にも一つの宇宙をつくりだそうと考えたのです。しかし同時に、この中庭は生活動線を分断します。住み手は寝室から台所に行くのにも一旦外部を通らなければならない。雨の日は、当然傘をさす必要がある。利便性の追求が大前提であった近代住宅の流れに全く反するもので、当時様々な批判を受けましたが、この中庭こそが住み手に四季のうつろいを感じさせ、生活に豊かさを与える住まいの心臓となると考えました。

「住む人が闘う」住まい。この住宅がその後の私の建築の原点になりました。技術の発展に伴い、近年ではますます生活における利便性が求められるようになっています。しかし私は、安易な便利さに流されず、そこでしか出来ない生活を求めることが、住まいを考える上で最も重要なことだと考えています。

 

 【安藤忠雄 略歴】

1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、1969年安藤忠雄建築研究所設立。環境との関わりの中で新しい建築のあり方を提案し続けている。79年「住吉の長屋」で日本建築学会賞、95年プリツカー賞、05年国際建築家連合(UIA)ゴールドメダル、10年文化勲章など受賞多数。97年から東京大学教授、現在名誉教授。00年、瀬戸内海の破壊された自然を回復するための植樹活動「瀬戸内オリーブ基金」を設立。11年「桃・柿育英会 東日本大震災遺児育英資金」 実行委員長。