ノーベル医学・生理学賞受賞

 

ノーベル医学・生理学賞受賞

 

京都大学 山中 伸弥教授

 今回の受賞で、日本人のノーベル賞受賞者は計19人となり、医学・生理学賞受賞は、1987年の利根川 進(米マサチューセッツ工科大教授)以来25年ぶり2人目である。

 山中伸弥京都大学教授のノーベル賞受賞は、驚きのうちに世界中に伝わった。
平成24年12月10日、ストックホルムでおこなわれた授賞式に、秋に受賞したばかりの日本の文化勲章を胸に出席した。

ノーベル賞に決まったときには、「日の丸の支援がなければ、受賞できなかった」、ノーベル賞授賞式にあたっても「日の丸を背負った学者として臨みたい」と、語った。

平成24年11月3日の文化勲章受賞後、「科学者にはノーベル賞はとても光栄だが、日本国民の一人としては今日が一番光栄な瞬間だ。」と、話した。

 ノーベル賞授賞式から一夜明けた11日午前(日本時間同日夜)ストックホルム市内での記者会見では、「今日は新たな始まり、研究者を目指した最初の日に戻ってやりたい」と、これからの抱負を述べた。

iPS細胞は無限に増やせて、200もの体細胞を創りだす

 iPSは、Induced(人工的につくられた)Pluripotent(多くの可能性のある)StemCell(基幹細胞)の略で、「人工多能性幹細胞」とも、もっと簡単に「万能細胞」とも呼ばれている。

 このiPS細胞には、二つの大きな特色がある。
一つは、一個の細胞から、培養すれば10個、100個、1000個、1万個と、無限に増やすことができる。

 もう一つは、iPS細胞に刺激を与えて、筋肉・神経・心臓・肝臓など、200種類以上ある体の細胞を創りだすことができる。

 具体的に今行われているのは、採取のしやすさから、皮膚・血液の細胞が使われている。
皮膚の場合、先の尖った器具を表面に当ててクルッと回すと、数ミリ程度の皮膚を採取することができる。

 この皮膚片を直径10センチのプラスチックの培養皿に貼り付けて培養すると、皮膚細胞はどんどん増える。2週間くらいで培養皿はいっぱいになる。

 しかしこれ以上は、いつまで待ってもあまり増えない。

 ところがここにOct3/c、SOX2、Klf4、c-Myc という4つの遺伝子を入れて、4週間培養すると、皮膚だった細胞が、全く形も能力も変えて、筋肉・神経・心臓・肝臓など、200種類以上ある体の細胞の元になる「万能細胞」に変わって、それを無限に増やすことができるのだ。

いろいろな細胞に分化する元の細胞を創りだそうと発想

 少し前まで、そのような能力のある細胞をES細胞と呼んでいた。
すべての動物の生命は、卵子一個と精子一個が結合して受精卵になり、次々と細胞分裂を繰り返し、数日で「胚」と呼ばれる状態になり、やがてメスの子宮の壁に潜り込み、母体からさまざまな栄養や酸素をもらいながら、さらに分裂をくりかえし、いろいろな細胞や臓器ができて、次世代が育っていく。

 この着床直前の胚を体外に取り出して、実験室でバラバラにして培養したものがES細胞。

 Embryom(胚性)StemCellm(幹細胞)の略だ。これもiPS細胞と同じように、培養すれば無限に増やすことができて、刺激を与えると、200種類以上ある体の細胞を創りだすことができる。

 いろいろな組織を創って、治療や創薬に役立つと期待されたのだが、2つの大きな問題があった。一つは、着床直前の胚を体外に取り出すという倫理的な問題、もう一つは、200種類以上ある体の細胞を創りだすことができても、その細胞は、元の人の遺伝子を持っているから、他の人の体に適用すると心臓移植などで起こる免疫拒否反応が起こることだ。

 そこで、いろいろな細胞に分化する元の細胞を創りだそうとした。理論的には、2000年当時にはわかっていたが、極めて実現困難で、20年、30年、もっと長い時間がかかっても不思議はないと考えられていた。しかもこの研究は世界中の第一線の研究者がしのぎを削っていた。

 この研究で山中先生のチームが、研究段階の極めて画期的なアイデアでOct3/c、SOX2、Klf4、c-Myc の4つの遺伝子をヒトの細胞にいれることによって、ヒトiPS細胞を創ることに成功して、今度のノーベル賞受賞になったのだ。

iPS細胞で「再生医療」「創薬」の新しい研究が

 たとえば、高齢で重い心臓病の患者からほんの少し皮膚の細胞、血液の細胞を採取してiPS細胞を創り、心筋細胞に分化させる。この心筋細胞は高齢の方の心筋細胞でなく、ゼロ歳の生まれたての心筋細胞に近い状態。iPS細胞に変えた時点で、いったん細胞寿命がリセットされ、赤ちゃん時代の細胞の状態に戻る。

 この技術で、病気になる前の元気な細胞を大量に作り出し、これを患者さんに移植することによって、心臓の機能を回復することができるのではないか。またこの細胞を使って、病気の過程を体外で再現することもできる。病気の仕組みがわかり、有効な薬の開発につながり、薬の毒性、副作用もわかる。

 今、世界中の研究者がこのiPS細胞を使って「再生医療」と「創薬」の研究をしている。

その軌跡をたどる

「またまた京大からノーベル賞」と言われているが、山中先生に限って言えば、一つは、京大だけでなく関西という地域が生んだと言えそうだ。もう一つは、柔道・ラグビー・マラソンなどをするスポーツ選手、整形外科医の臨床医、研究テーマも薬理学・分子生物学・がん研究などと変え、長期的ビジョンとハードワークだけでなく、プレゼン力重視など、さまざまな意味でマルチプレーヤーであったことが特徴だ。

生家は、東大阪でミシン部品の町工場を経営。経営がうまく行っている時には奈良・学園前の住宅地に住まい、父親の工場経営が苦しくなると工場の2階に移る。

 高校は大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺。 高校2年から徳田虎雄(徳洲会理事長)の著書「生命だけは平等だ」、井村和清先生の著書「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」などに感銘を受けて医師になることを決意。神戸大学医学部入学。

 中学・高校から大学2年まで柔道(中3で初段、高2で二段)。大学3年からはラクビー部。今も続けるマラソンは、医学部6回生、研修医時代に神戸で、2011年には、大阪国際マラソンにも参加(タイム4時間29分)。2012年には京都マラソン(タイム 4時間3分)。奈良先端大時代は毎朝構内をジョギング、京都大学に移ってからも鴨川沿いを昼休みに30分程走る。

 医学部では、学生時代柔道やラクビーで10回以上骨折するなど怪我が日常茶飯事だったため、整形外科の道を選ぶ。

 神戸大学卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務。しかし軍隊調の指導医に「お前は『やまなか』ではなく、『ジャマナカ』や」と怒鳴られ邪魔者扱い。また、重症になったリウマチの女性患者を担当し、患者の全身の関節が変形した姿を見てショックを受け、重症患者を救う手立てを研究するために研究者を志した。

1989年(平成元年)に大阪市立大学大学院薬理学専攻に入学。その頃、指導医に言われて感銘を受けたのは、『阿倍野の犬実験をするな』ということばだ。阿倍野は大阪市立大学のある地名。
アメリカの研究者が、「アメリカの犬は頭を叩いたら『ワン』と吠えた」と言う論文を発表すると、日本の研究者は「日本の犬も頭を叩いたら『ワン』と吠えました」と「日本の犬実験」の論文を書く。
さらに、「阿倍野の犬も頭を叩いたら『ワン』と吠えました」と、「阿倍野の犬実験」の論文を書く。そんな二番煎じ、三番煎じの研究はするなと教えられる。

薬理学教室で研究の面白さに開眼した山中氏は「研究の虜」になり、以後研究者の道を歩み続ける。

人間万事塞翁が馬

山中先生の好きな言葉の一つは、『人間万事塞翁が馬』。

 昔、中国に住んでいた「塞(さい)」という翁(おきな)。その持ち馬が逃げ出してしまう。気の毒がる人々に、翁は「これが幸福の元になるかもしれない」と言った。やがてその馬は多くの名馬を引き連れて戻ってくる。お祝いする人々に、翁は「これが災いの元になるかもしれない」と言った。あるとき、翁の子どもがその名馬から落ちて足を折って負傷してしまう。お見舞いにくる人に、翁は「これが幸福の元になるかもしれない」と言った。まもなく戦争がはじまり、若者たちは兵に出てほとんど亡くなるが、翁の子どもは負傷していたため兵にとられずに済んだ、という話が中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれている。

 人生はとかく禍福というものは予測できない。何事が起こっても慌てず騒がず受け入れて前に進もうという名故事だ。

 山中先生が、国立大阪病院で良い指導医に会っていれば、優れた整形外科臨床医、スポーツ医が生まれていただろうが、ノーベル賞学者山中伸也氏は生まれていなかった。

アメリカで身に付けた「プレゼン力」

研究者としての本格的スタートで身に付けたかった技術が、「ノックアウトマウス」という、特定の遺伝子を働かないようにしたマウスをつくる技術。遺伝子研究では必須の技術だが、日本ではほとんど未研究。『ネイチャー』(イギリス)、『サイエンス』(アメリカ)などの、権威ある学術誌の公募に片っ端から応募。アメリカのグラッドストーン研究所へ博士研究員として留学。iPS細胞研究を始める。

 アメリカ留学中にさまざまなことを学ぶが、特筆すべきことは「プレゼン力」。

 研究者は、研究だけしていればいいのではない。論文を書き、学会・講演会で発表し、研究成果を広くわかりやすく伝えることも重要。その技術を週二回2か月半にわたり受ける。これによってプレゼン技術だけでなく、研究手法、思考方法、論文の書き方を根本的に学び、人生を変え、何度も窮地から救ってくれることになる。

 帰国して日本の医学界に戻り、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。さらに奈良先端科学技術大学院大学の公募に「どうせだめだろうけれど」と思いつつ応募したところ、採用。ここでアメリカで学んだプレゼン力が大いに役立ったのだ。

 アメリカ時代と似た研究環境の中で研究し、2003年から科学技術振興機構の支援を受け、5年間で3億円の研究費を得て、研究に従事。研究費支給の審査の面接をした大阪大学の岸本忠三総長は「うまくいくはずがないと思ったが、迫力に感心した。」と。ここでもプレゼン力が力を発揮した。

 奈良先端科学技術大学院大学でiPS細胞の開発に成功し、2004年(平成16年)に京都大学へ。2007年8月からはカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所上級研究員を兼務、同研究所に構えた研究室と日本を月に1度は往復して研究。

 2007年(平成19年)11月21日、さらに研究を進め、人間の大人の皮膚に4種類の発癌遺伝子などの遺伝子を導入するだけで、ES細胞に似たヒト人工多能性幹(iPS)細胞を生成する技術を開発、論文として科学誌セルに発表し、世界的な注目を集めた。そして2012年、ノーベル医学・生理学賞受賞となる。

また、山中先生は、協力者への感謝も忘れない。

「iPS細胞は多くの人の努力の結晶として生まれました。マラソンというより駅伝に近いと言ったほうが良いと思います。最初は自分で走り始めましたが、途中からは私はコーチになりました。研究員をはじめ多くの学生や技術員の人たちがタスキをつないでくれて、研究員の一人がiPS細胞樹立という最初のゴールを切ってくれました。今はiPS細胞の臨床応用という新たなゴールに向けてみんなが頑張ってくれています。iPS細胞樹立の古くからの研究室メンバーがいまだに活躍してくれていますし、多くの新しい研究者が加わってくれました。また知財、広報、事務と言った研究者を支援していただいている多くの方々の協力も必要不可欠です」と。
 「これからは、創薬への応用が非常に大きな課題となる。一人二人でできる仕事ではない。iPS細胞をツールとして、研究に使ってもらえる環境つくりに貢献したい。」と語られた。

<<山中 伸弥 先生略歴>>
1987年
神戸大学医学部卒業、
国立大阪病院で整形外科の研修医に。
1993年
大阪市立大学大学院医学研究科修了。

米グラッドストーン研究所博士研究員、
奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター教授などを経て、

2004年から
京都大学再生医科学研究所教授。
2010年4月から
京都大学iPS細胞研究所長。