特集<神戸医療産業都市>

 

日本で遅れている基礎研究の成果を臨床や産業応用する
『トランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究)』に焦点を合わせて

矢田立郎氏〈神戸市長〉に聞く
 「震災復興」を契機にした、「神戸医療産業都市」はスタートから、14年を迎え、医療産業が集積する拠点としてトップランナーの位置を占め、日本の医療産業をけん引する存在になっています。その経過、今後の展望などを矢田市長にうかがいました。

阪神淡路大震災がなければ
「神戸医療産業都市」は生まれなかった


――「神戸医療産業都市」が誕生するには、阪神淡路大震災が、大きな契機になっているとお聞きしていますが。


矢田 神戸市の市域は、全体で約550平方キロで、淡路島、シンガポールとほぼ匹敵する面積があります。数字だけをみるとかなり広いように見えますが、沿岸域の土地は狭く、そこに港・重工業とともに、市街地が発展してきた上に、法規制で、市街地に大学・新しい製造拠点を作ることができなくなっていました。
 そういう状況の中でコンテナ化がどんどん進んでいく時代になりましたので、国際貿易港としての地位を確保するために人工島、ポートアイランドが造成されました。次に六甲アイランドにも人工島を造り、それではまだ足りなくて、ポートアイランド2期工事として、さらに水深が深いところに人工島を造りましたが、この島が出来上がって土地の上に何もない時に、地震が起こったのです。

――壊滅状態でしたね。

矢田 すべてが徹底的に破壊をされた中で、この島の使い方をどうしようかと考えざるをえなくなりまして、その半分は港の機能にして、残りの半分を、どう使うかが大きな課題となりました。もちろん島を造っていく前から、どんな使い方をするかということで議論をしていましたが、震災後は「震災復興」という課題がありましたので、21世紀の成長産業を考えることが必要でした。
 ちょうど京都大学の総長だった井村裕夫先生が、神戸中央市民病院の院長でおられまして、「21世紀の成長産業である医療関連産業の集積を、産学官の協力によって図り、日本随一のバイオの拠点として再生するのはどうか」、さらに「日本では、基礎研究の成果を臨床や産業応用していく『トランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究)』が遅れている、そこに基本構想の焦点を合わせよう」という提言をいただき構想がスタートしました。
 いくつかの選択肢の中から『医療産業都市』が選ばれ「雇用の確保と神戸経済の活性化」「市民の医療水準や福祉の向上」「アジア諸国の医療技術の向上など国際社会への貢献」を目的として『医療産業都市』の取り組みが始まった訳です。
 地震がなければポートアイランド2期の使い方は違っていたでしょうね。

トップレベルの研究施設、研究開発型の企業参加、
神戸中央市民病院移転など、着々と施設が充実して


――具体的にはどのように進捗して行ったのですか。

矢田 平成10年、1998年に井村先生を座長にした懇談会から始まりまして、国も構造改革特区などの政策を打ち出して、そういう波にも乗って、整備は次々に進んでいきました。
 最初にできましたのは「先端医療センター」で、さらに「理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター」が再生医療を中心にしようと出て来られて、これでかなり弾みがつき、「神戸臨床研究情報センター」(TRI)、「神戸バイオメディカル創造センター」(BMA)などができて、さらに人材養成のための施設として「神戸バイオテクノロジー研究・人材育成センター/神戸大学インキュベーションセンター」ができるなど、順次基幹的な施設が完成して行きました。
 また、企業の進出が重要ですので、「神戸国際ビジネスセンター」(KIBC)、「神戸ハイブリッドビジネスセンター」(KHBC)などをつくり、そこにラボを設けて入っていただくようにしました。さらに理研の野依理事長が、「これからの時代は分子イメージングをどんどん発展させないといけない」と、「理化学研究所 分子イメージング科学研究センター」(CMIS)がつくられて、基盤的な形はかなり完成しました。また神戸学院大学、兵庫医療大学、甲南大学、神戸大学などの大学機関も多く進出しています。

――企業の参加では、研究開発型企業が目立ちますね。


矢田 私達の最大の目的は、「基礎的研究を臨床に活かすこと」と位置づけていますので、それに対応した整備を図ろうと、研究開発型の企業に出ていただくことに力を入れまして、その結果、アスビオファーマ(第一三共グループ)、日本ベーリンガーインゲルハイム(ドイツ)などの大手製薬メーカー、医療機器メーカー、異業種から参入したものづくり企業のほか、創薬ベンチャーや商社、治験受託企業など、さまざまな業態の企業が次々に出てきまして、それにあわせて新しい施設を整備をしていくかたちで発展してきています。

――神戸中央市民病院が、このエリアに来たことも大きな力です。

矢田 やはり臨床との関係も重要になりますので、従来から移転を考えていた神戸中央市民病院をこのエリアに移転し、700床で昨年7月4日にオープンしました。
 さらにその周囲では「神戸低侵襲がん医療センター」「リハビリ病院」「チャイルド・ケモ・ハウス」の整備が進み、さらに須磨の「兵庫県立こども病院」の移転、田中紘一先生の「神戸国際フロンティアメディカルセンター」(KIFMEC)も構想されています。

神戸の街全体に、「医療産業都市」を目指していく基盤がある

――コンピュータ関連では、世界的レベルの施設が……。


矢田 神戸医療産業都市の中に、京速コンピュータ「京」、西播磨には理化学研究所の大型放射光施設「SPring-8」、SPring-8に隣接してエックス線自由電子レーザー施設「SACLA」など、世界的レベルの施設が利用できる環境が整ってきました。
 医療機器の開発、薬品の開発において、コンピュータが非常に有効であり、「京」「SPring
-8」「SACLA」などを、参加企業が効率的に利用することで、素晴らしい成果が出てくるのではないでしょうか。

――企業の参加、集積もかなり進んできていますね。

矢田 218社が現在のポートアイランドの企業の集積ですが、実は神戸では、人工島だけでなく、ニュータウンをたくさん造っていた頃に造成した工業団地に、医療関係の進出が今34社あります。シスメックスなどが、こちらを起点にかなりいろいろ事業展開をされています。これからは、工業団地の医療関連企業とトータルで考えていかねばなりません。
 また神戸は川崎重工業などをはじめとする「重厚長大産業」が特徴ですが、そういう企業が医療関連産業にも目を向けはじめています。三菱重工も医療分野に進出され、今まで持っている技術そのものを少し目先を変えれば医療分野で充分やっていけるというお話も聞きます。
 「重厚長大」というと雑なイメージがありますが、重厚長大産業の基礎技術というものは、非常に微細なもので、基礎研究が充分に磨かれています。もともとの技術をベースにしながら、新しい分野に入って行くことはそれほど難しくありません。スパコンなどを使って研究を進めることによって、一気に新しい創造が生まれるのではないかと期待しています。
 神戸の街全体に、トータルに「医療産業都市」を目指していく基盤があります。神戸はそういう街を目指してやっていく、今、転換期にあるのではないかと感じています。

――グローバル化時代に、「神戸医療産業都市」にとっての問題点は……。

矢田 日本は、医療産業だけでなくあらゆる産業分野で、シンガポール・中国・韓国にあっと言う間に追い越される可能性があります。その原因の一つは、国の意思決定が非常に遅く、集中投資をしないことにあり、もう一つは規制があまりにも多すぎることです。
 新薬の研究開発をしても、それを製品にするための治験が日本では3年以上かかります。アメリカでは半年が普通、中国も非常に早い。グローバル化時代の競争で日本が遅れをとる最大のネックはそこにあります。医療産業を成長戦略の一つに掲げていろいろやっていく上で、思い切った規制緩和をやり続けるということがもっとも大きな課題です。それができなければ、日本の医療産業の成長は中途半端に終わりかねません。
 目の前に空港があるという非常に恵まれた立地にある「神戸医療産業都市」の大きな発展のためにも、規制緩和のスピードをさらに上げていただきたく思っています。

マイナスに見える要素に躊躇するのでなく、
それをプラスに転換をしていく姿勢で


――「神戸医療産業都市」は、日本の医療産業全体の中でも、大きな位置を占めるのではありませんか。

矢田 今まで見学などに来られた政府の関係者は、異口同音に「ここはもう完全にトップランナーになった、がんばって日本を引っ張っていって欲しい」と言われます。そういう期待に応えて、神戸市が日本をリードするのだという気概でやる必要があると思っております。

――最後に、神戸市民、医療関係者を中心にみなさんにメッセ―ジを。

矢田 「神戸医療産業都市」は新しい神戸の未来像を描こうと始まったプロジェクトで、新たなものを創造していく拠点です。「先を見越して物事を進めていこう」という視点で、神戸の街の発展のために今しておかなければならないことを着々と進めて、マイナスに見える要素に躊躇するのでなく、それをプラスに転換をしていく姿勢で物事を進めたいと考えています。
 神戸市民をはじめとするみなさんが、「あの時に積極的に進めておいてよかった」と言っていただけるものにしたいと考えています。ご理解とご協力をお願いする次第です。

――ありがとうございました。

 

 


矢田 立郎市長略歴
1940年(昭和15年) 神戸市生まれ。
1958年 兵庫県立御影高等学校卒。
1959年 神戸市職員。
勤務しながら、1971年 関西大学法学部第二部法科卒。
2001年 神戸市長。
関西大学政策創造学部客員教授。