大阪府医師会に勤務医部会が設置されるまで

 医師会は各都道府県にありますが、いずれも設立当初は開業医を中心とした組織でした。その後、開業医だけでなく勤務医が参加できる体制が整えられ、大阪府医師会も昭和48(1973)年7月に勤務医部会を設置しました。

 今年、実に35年ぶりに大阪で平成28年度「全国医師会勤務医部会連絡協議会」(11月26日。会場はリーガロイヤルホテル大阪)が開催されるのを前に、同医師会における勤務医部会設置前後の事情、その後の展開について大阪府医師会勤務医部会現顧問の阿部源三郎先生にお聞きしました。

勤務医部会は時代の要請でもあった

 

――大阪府医師会に勤務医部会が設置されて今年で43年目になります。勤務医部会設置の動きは昭和28年に大阪市役所医師会が組織されたことにまで遡るそうですね。

 

阿部 勤務医部会の設置は大阪府医師会の歴史を記録するうえで重要な事案のひとつであることは言うまでもありません。ただ、勤務医部会を設置した背景や具体的な動きについては医師会の関係者の中にもご存じの方が少なく、実現に向けて中心的な役割を担っておられた人びともほとんどが亡くなられました。私自身も高齢(編集部註 阿部先生のお生まれは大正8=1919年で今年97歳)ですが、このままでは後世に伝えるべき勤務医部会設置にいたる経緯が雲散霧消しかねませんので、記憶を呼び起こしつつ、知り得る限りのことをお話ししたいと思います。

 

 私は昭和23年から大阪市東区医師会(現・大阪市中央区東医師会)に役員として所属しました。さて東医師会内に勤務医問題が惹起した当時、大阪府医師会長は藤原哲先生でしたが、東区医師会は府医師会の中でも中核的な役割を果たしていました。

 

 役員に就任してから13年後の昭和36(1961)年、全国の医師会で初めてとなる勤務医部会が山梨県医師会に設けられました。医師会はもともと開業医が構成メンバーの中心だったのですが、この時から勤務医に関する部会設置の動きが変革に向けた大きな流れが生まれたと思います。

 

――阿部さんが勤務医部会設置の必要を感じられたのはいつ頃のことですか?

 

阿部 ちょうど山梨県医師会が部会を設置した時期と重なります。昭和30年代の半ばですね。わが国は高度経済成長時代の真只中でした。

 

 当時、東区(現・中央区)内にある企業の産業医として仕事に取り組んでいました。私自身も勤務医だったのです。周辺には多くの大企業が本社を構えており、その付属施設として社員の福利厚生の一環で社内に診療所を開設していました。また、地域にも規模の大きな病院がいくつもあり、開業医よりも勤務医の数のほうが上回っているほどでしたが、この背景には同じ頃に国民健康保険法が改正されて国民皆保険体制が確立したことがあったような気がします。

 

――どういうことでしょう?

 

阿部 国民皆保険が契機となって企業内診療所や大病院に所属する勤務医は、それぞれの健保組合や病院事務局を通じて医療や関係する行政の様々な情報に接することが可能になり、地域の医師会に入らなくても別に困らない状況が生まれたのです。

 

 当時の東区医師会長は、申請医師会7代目の会長であった樋渡先生でした。先生は、このことは看過できない事態であると認識し、1960(昭和35)年4月に大阪府医師会藤原会長宛に建言書を提出されました。

 

――どういう内容のものですか?

 

阿部 骨子だけをお伝えしましょう。

 

 1、大阪府医師会の組織強化のためには勤務医が増えつつあるという現実をしっかりと受け止めること

 

 2、そのためにも医師会内に勤務医のための組織設置が不可欠であること

 

 というものです。

 

――大阪府医師会も時代の変化に対応すべき、というメッセージですね。

 

阿部 ええ。大阪府医師会の組織を強化するには勤務医の存在を無視するべきではない、できるだけ早急に勤務医のための部会を設置しなければならない、ということを強く訴えました。

 

 建言書の提出とタイミングを合わせる形で東区医師会は「勤務医問題検討委員会」を設置し、この問題に真摯に取り組まれました。委員会には私自身もメンバーとして参画していますが、府医師会も堀江貞彦理事を委員会に派遣しています。勤務医問題の重要性を認識されていたからでしょうね。

 

 その後、昭和39年に府医師会内に諮問機関として勤務医委員会が設けられ、勤務医の社会的地位や経済問題の検討に本格的に取り組みました。この時の府医師会長は宇野菊三郎先生でしたが、残念ながら部会の誕生までには至りませんでした。会内から十分な理解を得られなかったのです。機が熟していなかったのかもしれません。

 

 

構想20年目に勤務医部会の設置が実現 

  

――しかし、9年後の昭和48年7月に勤務医部会の設置が決まりました。

 

阿部 その前年に山口正臣先生が新しい府医師会長に就任されました。山口会長は地域医療の充実のためには勤務医と連携する体制を確立することが急務であると考えられ、勤務医問題を担当する理事として大阪市役所医師会から橋本博先生を招かれたのです。橋本先生は部会の設置に意欲的に取り組まれ、これが契機となったのか府医師会では勤務医部会の設置に向けた機運が一気に高まりました。

 

 同じ年には第130回「大阪府医師会臨時代議員会」が開かれ、勤務医部会設立に関する特別委員会の設置が承認されて、以後は順調に事が運びました。そして昭和48年7月7日の大阪府医師会勤務医部会設立総会にこぎつけたのです。

 

――最初の構想から10年目にして思いが結実したわけですね。ちなみにこの時の大阪府医師会は山口会長、勤務医部会初代部会長が橋本先生、副部会長が関一郎先生、藤田栄隆先生、そして阿部さんでした。

 

阿部 日本医師会に勤務医委員会が設置されたのは昭和58年でした。初代の委員長は当時、府医師会副会長だった橋本先生です。在任中の5年間にその問題に取り組まれ、大いに尽力されました。ひとつの例として勤務医に対する医師賠償責任保険制度の適用があります。

 

 医師の立場では万が一にも医療事故はあってはならないものですが、この保険制度はそれに備えたもので、安心して日々の医療活動に専念するために欠かせないものです。府医師会勤務医部会ではB会員(勤務医および大学等の医育機関医師)、C会員(研修医)に対する医師賠償保険制度を日本医師会に答申し、昭和62年度から日医医賠責保険が適用されることになりました。これは勤務医部会の努力の賜物であったと思います。

 

 その後、勤務医委員会の委員長は濱田和孝、委員としては大阪から藤田敬之助、大笹幸伸、上田真喜子、下村嘉一の各先生が就任されておられます。

 

 こうした一方で橋本部会長は勤務医部会の全国会議を提唱され、昭和56年に第1回大会を福岡で、同じ年の12月には第2回大会を大阪で開催しました。大阪大会には28都道府県、11の医師会から170人余の方が参加され、活発な議論が交わされたことを記憶しています。

 

勤務医と開業医の連携が

地域医療には不可欠

 

 

 ――今度35年ぶりに大阪で開催される「全国医師会勤務医部会連絡協議会」ですが、日本医師会の主催になったのはいつからですか?

 

 阿部 平成(1991)3年10月からですね。大会の開催を担当されたのは青森県医師会でした。

 

――大阪大会では、団塊の世代が全員75歳を超えて医療と介護の両面で重大な分岐点に直面する「2025年問題」と、それに関わる「勤務医の役割」がメインテーマに設定されています。今後の地域医療の分野で開業医とともに勤務医が果たす役割、担う責務はこれからも大きくなりそうですね。

 

阿部 その通りです。勤務医部会の真価がこれから問われるようになると思いますね。そういう意味でも今度の大阪大会が盛会となり、しかも有意義な成果を生むことを期待しています。

 

 大阪府医師会に勤務医部会が設けられたのはいまから43年前のことです。ほぼ半世紀近い時間が経っていますが、開設当時の経緯や事情を知っているのは橋本先生と私だけになってしまいました。

 久々に大阪で大会が開催されることを機に勤務医部会の設立の動きについてお話しましたが、私が語ったことが府医師会における勤務医部会の歴史認識にいくらかでも役に立ち、今度の大会に参加される方はもちろん、全国の勤務医の先生方に何らかのご参考になれば、と心から思います。

 あと個人的なことになりますが、私はこれまでに開催された「全国医師会勤務医部会連絡協議会」にはすべて出席しているんですよ。全国では私たった一人だけのようですがね(笑)。

 

――まさにリアルタイムで勤務医部会の誕生から現在までの動きに立ち会っておられるわけですね。阿部先生、どうぞいつまでもお元気で。本日は貴重な証言、思い出をお聞かせいただき、ありがとうございました。

平成28年度全国医師会勤務医部会連絡協議会

 

日 時  平成28年11月26日(土)午前10時~(懇親会 18:00~19:30)

 

主 催  日本医師会

 

担 当  大阪府医師会

 

 

 

略 歴

昭和18年、大阪帝国大学医学部卒業後、同第2内科入局。海軍軍医を経て昭和21年に高野山厚生病院、昭和22年に荒井村診療所に勤務を経て、昭和23年から伊藤萬(当時)など大企業の産業医を務める。大阪府医師会では勤務医部会の副部会長、常任委員、顧問などを歴任。